豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。
本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。
でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。
その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。
秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。
それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。
それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)
そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。-北野武「やり残したこと」
待望の新作について、ついに北野監督本人により大きなヒントがもたらされた。
なんと次回作として、“本能寺の変”に材を取った戦国絵巻を検討中らしい。現時点でのタイトル案は『首』。
これまで男たちの死に様に独自の美を見出してきた北野監督だ。戦国時代における死を象徴する「首」が標題となると、いやがうえにも期待が高まるというものだ。
北野監督が構想中のアイデアを明かしたのは、 「文藝春秋」2019年1月号 に掲載されている作家・伊集院静氏との対談「草野球が教えてくれた」の席上だ。
「いま、ずっと映画にしたいと構想している、本能寺の変を題材にした『首』って歴史物を、小説とシナリオで同時に進めてるんです」
“本能寺の変”は日本史最大のミステリーとされる事件。なぜ明智光秀は天下人・織田信長に反逆し、なぜ豊臣秀吉は光秀を倒すことができたのか――この謎を北野流に解釈しようというのだろうか?
「片っ端から史料を読んでノートを取るでしょ。そうすると、こんなに積み上がっちゃって。どうしていいか書きあぐねてる感じですよ」
北野監督は、敬愛する黒澤明監督が撮った『蜘蛛巣城』をマイ・フェイバリット・ムービーに挙げている。『蜘蛛巣城』はシェイクスピアの戯曲を下敷きにした、血みどろの戦国絵巻だ。もしかすると次なる映画は画作りにも新しい変化が見られるかもしれない。というのも、現在発売中の「週刊文春エンタ!2018」で、北野監督はこのように発言しているからだ。
「次に映画を撮るということになると、今度はフレームに凝っちゃうんじゃないかなって気がしてしょうがない。せっかくやるなら、今まで通りにはいけないよね。これだけ映像が氾濫してると、映画に求められるのは高い意識をもった映像なんだろうなと思うからね。もしかしたら、モノクロで挑戦するかもしれないよ」
前述の伊集院氏との対談によれば、新作の始動は、来年秋以降を希望しているという。
処女作以来、常に映画の常識を打ち破ってきた北野武監督。早ければ2020年、通算19本目となる最新作によって、日本史と映画史が覆されることになりそうだ。
引用・リアクション:1件
ゆっくり回る碗から渋々と手を引っ込めながら、でこぼこした側面がゆっくりと止まるのを見ていた。もう少しだけまっすぐにしたかったな……と、そう思いながら。
日本の山口県の田舎にある古い陶芸の町、萩でのことだ。そのままにという陶芸家の言葉を信じたが、私にその意図が理解できたとは思えない。
陶芸家は笑顔でこう言った。「わびさびですよ」。
そして火を入れるため、碗をさっさと持って行ってしまった。私は座ったまま、いびつなのにと思いながら、陶芸家の言葉の意味を考えていた。
どうやら、「わびさび」という言葉の意味が分からないのは、よくあることらしい。日本の美意識の大事な部分で、日本の好みや美の基準に今も影響する古くからの理想なのだが、「わびさび」は翻訳できないだけでなく、日本文化において、定義すらできないと考えられている。
何かを深く味わった瞬間にふと使われがちだ。しかし、詳しい説明を求めると、必ずと言っていいほど「無理!」という返事が返ってくる。「わびさび」とは、世界を独特の視点から見る方法なのだ。
「わびさび」の概念は、中国の宋王朝(960〜1279年)の時代に道教から生まれ、禅仏教に取り込まれた。そもそもは、禁欲的かつ控えめに美を愛でる方法として捉えられていた。
現代では、はかなさや自然、哀愁を、もっと緩やかに愛でる鑑賞法となり、建物から陶器、生け花に至るまであらゆるものについて、不完全で不十分な姿を良しとしている。
「侘(わび)」は、「つつましく簡素なものの優美」を意味する。「寂(さび)」は、「時間の経過とそれに伴う劣化」を意味する。この2つが組み合わさり、日本文化に極めて重要な、独自の感覚が作られた。しかし、言葉は理解の妨げになると仏僧が信じたのと同じように、この説明は「わびさび」の表面をかすめるくらいしかできない。
東京大学の美学芸術学研究室の小田部胤久(たねひさ)教授は、わびさびを理解する入り口には、古いわび茶の作法(15世紀末から16世紀に茶人の村田珠光と千利休が完成させた茶の湯の道)が適していると提案する。当時人気だった(そして技術的に非の打ち所がない)中国からの輸入陶器ではなく、ありふれた日本の陶器を選ぶことで、2人はそれまでの美の決まりごとに挑んだ。それまでは美しいものと言えば、鮮やかな色彩や凝った装飾がつきものだった。その分かりやすい手がかりがないものを前に、茶席の客人は、華やかな器では目に入らなかった繊細な色調や手触りをじっくり味わうよう、促された。
わびさびは、物事を未完成や不十分なままで終わらせる。そこに、想像力が入り込む余地が生まれる――と、小田部教授は話す。
わびさびだと言われる何かに積極的に関わると、3つのことが実現できる。その作品の制作にかかわった自然の力に気づき、自然の力を受け入れ、そして二元論(私たちは自分を取り巻く環境とは切り離された存在だとする考え方)から抜け出ることができるのだ。
こうした経験を組み合わせると、ヒトは自分が自然界の一部だと思えるようになる。社会の仕組みに隔てられることなく、代わりに自然の時の移り変わりの中で自分は無力な存在なのだと。へこみやでこぼこは欠損ではなく、自然の創造物なのだと受け止めるようになる。たとえば、苔がでこぼこの壁で生い茂ったり、木が風に揺れてしなったりするように。
わびさびの美的感覚によって私たちの目は日常に向かって開いた。普通のものを普通ではなく美しいものとして扱う方法を、わびさびによって日本人は得たのだと、小田部教授は言う。壊滅的な自然災害にほとんど定期的に襲われる日本では、物事をあるがままに受け入れるというのは、文化にとって大事なことだからだ。
自然をただ単に危険で破滅的な力と位置付けるのではなく、わびさびの概念を使えば自然は美の源だと位置づけることができる。どれほど微小なものでも鑑賞の対象になる。わびさびを通じて自然は、色彩やデザインや文様のもととなり、刺激の源泉となり、対抗するのではなく協力するべき力となる。
自然においては死は避けがたい世界の一部なのだと受け入れることが、わびさびを本当に理解するための鍵となる。
作家のアンドリュー・ジュニパー氏は著書「Wabi Sabi: The Japanese Art of Impermanence(わびさび――無常の日本芸術)」で、「わびさび」についてこう書いている。「あらゆる無常なるものに見て取れる、はかない極上の美に意識を集中させるため、死生観を妥協なく取り入れる」。
自然の中にある模様は、それだけではただきれいなだけだが、無常と死への気づきを強調するはかないものだという文脈の中で理解すると、それは深遠なものとなる。
日本人同僚とわびさびについて話していた時に聞いた話を思い出す。10代の頃に京都を訪れたその女性は、静かな庭園のある木造の禅寺、銀閣寺の境内を急いで通り過ぎた。銀閣寺よりも有名な金閣寺が見たかったからだ。金閣寺は鏡のような池のほとりにたたずみ、息を呑むほど美しく豪華で、期待通りだった。伝統的な銀閣寺よりずっと印象的な美しさだった。
それから数十年して、この女性は再び黄金の寺を訪れた。確かに派手だが、金箔の輝きにワッとなる以上の感慨は、ほとんどなかった。しかし銀閣寺には、以前は気づかなかった魅力を感じた。古い木材には数え切れないほどの色合いや模様が含まれ、禅式の苔庭や銀沙灘は、自然の中にあるいくつもの形を縁取っていた。
子供の頃はこうした諸々を味わうことができなかったのだが、今は二次元的な黄金の輝きよりも、時間がもたらす荒廃の中にもっと素晴らしい深い美を見出せるようになっていたのだ。
1人の人間の中でのこうした美の味わい方に興味をそそられ、私は芸術家の浜名一憲氏に連絡した。浜名氏の個性的な作品には、わびさびの要素があるとよく言われる。田園風景が広がるのどかな千葉県いすみ市にある、今にも壊れそうな農家の家の敷地を歩きながら、浜名氏は年月が流れる必要性に同意した。
若いころの感覚は大人の感覚とは違うと、浜名氏は言う。若いころは何でも新しい方がいいと思いがちだが、次第に歴史の移り変わりの物語性が分かるようになると、自分の家族にも自然の中にも、たくさんの物語があるのだと気づくのだと。そうするうちに人はやがて、全てのものが成長しては死んでいくのだという概念を理解するようになる。
浜名氏の作品では、時の流れが重要な要素だ。廃屋となった古い農家を使って、時間の経過を表現している。玄関の木枠はいろりの煙に何年もいぶされて黒ずんでいるし、土壁が崩れ始めている。ひとつひとつを指差しながら浜名氏は、人間味のない白い展示空間という冷たい二元性ではなく、こうした古い民家の歴史が自分の作品の背景としてぴったりだと思うと話す。
浜名氏は、高品質の粘土と陶器作りで知られる滋賀県の土で作品を作る。人間と自然が一緒になって何かを作りだすという、わびさびの重要な概念は浜名氏にとって大事なものだ。
作品を作る最初の段階では多少は意匠を考えるが、土は自然のものなので、作品の形もおのずと変わっていく。自然と戦いたくないので、自然が作り出す形に従い、受け入れるのだと言う。
浜名氏は作品の形作りだけでなく、その後の外見に関しても自然に任せている。農家の敷地内の辺り一面に生い茂った竹やぶの中で、屋外に置くことにした作品を見せてくれた。やぶの中に、数年ずつ埋めておくのだ。そうすることで極端な温度や周りの植物にさらされた作品には、独特の模様が付つく。中には壊れてしまうものもある。そうした作品をじっくりと見ながら私は、ひび割れによって作品の物語がさらに膨らむのだと、浜名氏のこの手法によって一つ一つの作品はひたすら美しくなっていくのだと気づいた。
わびさびと関連してしばしば取り上げられるのが、金継ぎの技術だ。金または漆を使って割れた陶器を修復する技法は、割れ目を隠すのではなくむしろ強調し、それも作品の一部にする。浜名氏の娘が作品のいくつかをうっかり割ってしまった時には、破片を数年間外に置いて自然に色と形をつけてもらったのだと、浜名氏は笑った。割れた作品を地元の金継ぎ師に修復してもらった時、色の違いが、非常に微妙でむらのある対比を作り出した。意図的には絶対に作り出せないものだ。自然の影響を受け入れ、家族の歴史を作品の中に見せることで、壊れたものから唯一無二の価値が生まれた。ほかの多くの社会では、壊れたからもう価値がないと捨てられていたかもしれないのだが。
実のところ、ラテン語の「perfectus」(完全)から来る「perfect」(完璧)という言葉は、欧米を中心に多くの社会で、不当なまでに持ち上げられてきた。
完全で誤りがないことを優先させる完全性という理想は、基準値として達成不可能だというだけでなく、そもそも間違っている。道教では、完璧なものにはそれ以上の成長や発展はできないため、完璧はすなわち死に相当すると考えられている。私たちは完璧なモノを作り、完璧な状態を維持しようと努力する。しかし、あまりに完璧を重視するためかえって、そのモノの本来の目的を否定し、結果的に変化と成長の喜びを失ってしまう。
もののはかなさを美しいと愛でる心は、抽象的に思えるかもしれないが、日本ではごくごく素朴な娯楽の中にもそれを見出すことができる。桜の花を愛でる毎年の花見は多くの場合、すでに散り始めた桜の花びらが舞う中で宴会やピクニック、船乗りやお祭りを楽しむ行事だ。そして、散った花びらが地面にでたらめに作った模様も、枝の上で咲く花びらと同じように美しいと考えられている。
散りゆく花びらなど、欧米なら写真を何枚か撮っておしまいだろう。しかし、この束の間の美を純粋に受け入れる姿勢は、感動的でさえある。メランコリックな、哀愁に彩られた美の愛で方だ。しかし、一瞬一瞬をありのままに楽しもうという姿勢が学び取れる。
私たちは、でこぼこや傷を抱えて生きている。どれも、それまで経験してきたことの痕跡だ。消してしまうのは、人生がいかに複雑かを無視するのに等しい。不完全なものは不完全なままに保ち、壊れたものは直し、「欠陥があっても美しい」のではなく欠陥の中にこそ美しさを見出すよう学ぶことで、自然災害を乗り越え続ける日本の力は強くなる。
私が萩で作った陶器は数カ月後、郵便で届いた。でこぼこだった。けれどもそのでこぼこは、もはや欠点ではなかった。むしろありがたいことに、人生は完璧ではないし、完璧にしようと頑張るべきでもないのだと思い出させてくれた。
(英語記事 Japan’s Unusual Way to View the World)
引用・リアクション:1件
スマホ販売員なんていう、はてなーに底辺って馬鹿にされる仕事してるんだけど、
世間の人があまりにもWi-Fiやスマホについての理解・リテラシーが無くて唖然としている。
俺は家電量販店の担当しているんだが、いやほんとヤベーわ世間の人。無知にも程がある。
今時スマホの新規契約なんて見込めないから、他社からウチに乗り換えてもらうために片っ端からお客さんにスマホ契約状況を聞いて回らなければならないのだが
スマホだけでなく、家の固定回線も含めて話を聞かなければならない。が、先日たまげた話を聞いた。
40代主婦らしきお客様に話聞いた結果、
「主人はソフトバンクしか使いたがらないのでスマホはソフトバンクで主人専用にソフトバンク光、高2の息子はドコモに拘りがあってスマホはドコモ、息子専用にドコモ光。中3の娘はauしか使いたくないのでスマホはau、娘専用にauひかり。」
!?
それぞれキャリアに拘りがあるから家族バラバラだってのはよく聞く話だけど、光回線までも自分のキャリアのものしか使いたくないと言うので家族それぞれに専用光回線を引いてるのだという。
1軒で光が3回線もある家って、配線どんな状況になってるの?っていうか、月額とんでもない料金になってない?
これだけでもたまげて腰抜かすとこだったんだが、次の発言で完全に腰抜かした。
「それで、うちにWi-Fiが3つ飛んでるんだけど、パスワードとかよくわからないし設定も面倒くさいから、家族が全員Wi-Fiにパスワードかけてないの。そしたら近所の方々がみんなうちのWi-Fi使ってるらしくて、『Wi-Fiダタで使える』って、お隣さんが自宅で使ってた光回線解約しちゃったみたい。昨日そのお隣さんに『解約されたらウチもネットできなくなるんで、絶対解約しないでね』って頼まれちゃった」
すげえなあ。何されるか解かんないのに、怖くないのかなあ。
結局このお客さんは「旦那がソフトバンクにこだわっているから、こだわりのない私がソフトバンク以外に乗り換えたら殺される」とのことで契約いただけなかったのだが
そこまでスマホにこだわりがあるならWi-Fiのパスワード無しの怖さくらい理解してそうなもんだが、ソフトバンクなんかにこだわってる程度からしてリテラシー皆無だろうなあ。
で、話元に戻ると、
光回線についてお客さんに聞いてまわってると、「近所にパスワード無しのWi-Fi飛んでるから、うち契約する必要ないんだよね」って答える奴の多いこと。
どんだけ世間にパスワード無しWi-Fi飛んでんだ?どんだけWi-Fi泥棒してる奴いるんだ?
いつか捕まるかも、って考えないのだろうか。そもそもそれが犯罪だって気づいていない奴ばかりなんだろうな。
日本にネットが普及して20年ほど、未だこれだけネットやスマホのことをよく理解してない人が多すぎて、絶望するしかない。
これ程度のリテラシーだもん。そりゃあ漫画村使って何が悪いとか言うわ。
もうね、ほんと、大げさに盛った嘘松じゃなくね、「自分が使ってるキャリアがどこか覚えていない」「私スマホとかよくわからないんで普通の携帯使ってるんですよ、と言って出してきたのがiPhone」なんて日常茶飯事。ジジイババアの話じゃねえよ、20代30代でこれだよ。
もうそういう人は高い金払って無理してiPhone持つ意味なくね?
よくわかってねえくせに無駄にiPhoneにうるせえ奴もとにかく多くて、
アンドロイド2とかの原始のスマホ持ってきて「iPhoneにアップデートしろ」とか意味不明な要求をする奴、
ああ、あと1番多いのはとにかく世間には「ソフトバンクのiPhoneこそ本物、ドコモ・auのiPhoneはパチもん」と思ってる奴の多いこと多いこと。
「本物のiPhoneが良いんでソフトバンクしか契約しないんです」って言う無知がとにかく多い。あ、だからソフトバンクなんて契約すんのか。
「え?スマホ売ってるのに知らないんですか?ドコモとかauのiPhoneは中国とか韓国で作ってる偽物ですよ。そんな常識も知らないのに携帯売りつけてるなんてプロじゃないですね。詐欺ですよ詐欺」なんて説教までしてくる奴がいる始末。
「ソニーのiPhoneください」って言われて、ああ、Xperiaのことかな、と思って案内したら「だから、ソニーのiPhoneですよ!」ってiPhone売り場まで連れていかれ、
「この中でソニーのiPhoneどれですか?私はソニーのしか使ったことがないから、東芝とかパナソニックとかのiPhone渡されても操作できないんですよ!」とまくしたてられ、
「いや…iPhoneは全てアップルってメーカーが作ってるのでどれも同じですよ」って伝えても
「私のはソニーなの!!アップルなんて聞いたことがない!!契約したときにしっかりソニーと言われました!」とかブチギレしだして
当店にはソニーのiPhoneはありませんね・・・他のお店当たってください・・・と言うしかなかった。
他に「今ドコモ使ってるんですけど、本物のiPhone使いたいんでソフトバンクのiPhoneにしたいんですけど、ドコモのままソフトバンクのiPhoneに機種変更してください」とか言われて、「無理なんで中古のSIMロック解除済みソフトバンク版iPhone買ってください」って言うと「新品がいいです」「無理ですね」「そこをなんとか〜」「じゃあアップルでSIMフリー版買ってください」「アップルなんて聞いたことない、iPhoneはソフトバンクが作ってるスマホです」「じゃあソフトバンク乗り換えてください」「ドコモのままが良いんです〜」「無理です」「そこをなんとか〜」と3時間粘るバカ。業務妨害もいいとこ。
無知かつiPhoneしか認めねえって奴は無敵。
ああ、あとWi-Fiの話に戻るけど「スマホうちに乗り換えませんか〜」といつものごとく話かけると
「今時Wi-Fiが無料で使えるのに契約するなんて馬鹿のすること」と言い切った男。
隣にイオンがあって、そこの無料Wi-Fiが家まで飛んでくるんでそれ使ってるとか。
それも犯罪じゃないのかなあ。
どうもSIM入れてないカラのスマホ持ち歩いてるとかで、無料Wi-Fi渡り歩いてるのかな?と思いきや
その男が「この店までイオンのWi-Fiが飛んでこないからネットができない!!どうしてくれるんだ!!」とかキレだして、え、イオンなんて隣町なのにこんな遠方まで飛んできてると思ってるの?と恐怖したんだけど
とりあえず店のフリーWi-Fi教えたら落ち着いて帰った一時間後、「テメーの店のWi-Fiも店から出たら使えねえじゃねえか!どうしてくれんだ!訴えるぞ!!」とか俺指名でいっちょ前にクレームこきだして。
根本的にWi-Fiが何かを理解していない。いくら説明しても理解しないしで、これも2、3時間かかったかな〜。帰るまで。
もうこのレベルのは警察呼んでも良いと思うんだけど、店長がビビって通報してくれないんだよな〜。店の評判が悪くなるとか言って。
まあ、普通のショップはここまでの人材は来ないらしいけど、量販店に来る人ってこのレベルしか来ないので、ほんとつらい。
日本人のネットへの理解力はダントツで世界ワーストなんじゃないか。
だから「マイニング?何それ?」なんて鼻くそほじりながら漫画村なんて平気で読むし、はちまとかネットギークを毎日休み時間に読んでは鵜呑みにしちゃうんだよな〜。
日本は終了しました。
【追記】 そういや、きょうソフトバンクの通信障害あったじゃん。 「俺よう、ソフトバンク(もしくはワイモバイル)使ってんだけどよう、さっきからずっと圏外なんだわ、使いもんにならないんだわ、どうしてくれんだ!誠意を見せろ!」って10人くらいに言われたわ。
うるせー!!!!
うちソフトバンクじゃねーわ!カウンター一目見たらわかるだろ!俺のかっこ見たら違うってわかるだろ!
なんでソフトバンクのカウンターいかねえで他キャリアにクレームつけてんの?バカなの?
と言いたいのを抑えて冷静に対処しました。
「とにかくスマホ関係者だったら誰でも良いから文句言いたい」って人多すぎだろ…
あと、スマホのクレームつける人はみんな揃って「誠意を見せろ」って言うの何?
他業種のときは言われた事がない。
金よこせってこと?
酔った勢いで文句書いたらすっきりした。
明日も頑張る。胃は痛い。
案の定ブコメで嘘嘘言われてるけど、そりゃあ日常的にネットやってるブクマカにはにわかには信じられないよね。
俺も携帯業界入ったばかりの頃は驚いたけど、今は慣れた。
けども1家庭光3回線はさすがにたまげた。
家の壁どないなってんねん
上司に「光3回線って本当にできるんですか」って聞いたら
「できるよ、そんな珍しいことじゃないよ」だってさ。
珍しいだろ!
引用・リアクション:2件
先日、イタリアのファッションブランド「ドルチェ&ガッバーナ」が制作した動画及び、その後、インスタグラムで苦言を呈した人に対して、同ブランドのデザイナーであるステファノ・ガッバーナ氏と見られる人物が、排泄物の絵文字を多用しながら、中国を屈辱する内容を書き込んだことが原因で中国で、ドルチェ&ガッバーナの不買運動が起きるなどの大騒動となりました。
ブランド側はアカウントを乗っ取られたと主張しましたが、結果的に同社のデザイナーであるドメニコ・ドルチェ氏とステファノ・ガッバーナ氏が謝罪をする展開になりました。
この騒動に日本は直接かかわってはいませんが、日本のテレビやインターネットを見て気になったのは「日本に住む日本の人々の受け止め方」と「欧州社会の一部に残っているアジア人蔑視の現実」とのギャップです。 「お箸文化」への蔑視にみる「異なる文化への軽視」
動画について、具体的に何が問題だったのかというと、単刀直入にいえば、「お箸文化への蔑視」だと思います。動画では「箸を一本ずつ片手で握る」というお箸を使う文化圏であれば、マナーとしてあり得ない動作を繰り返し映しており、さらに片手で握った一本の箸でピザの生地をつついたり刺したりと「やりたい放題」です。
箸を日常的に使う国の人が見たら不快に感じる動画を、なぜ配信前に誰も止めることができなかったのかと不思議に思うところですが、中国の「ヴォーグ」の編集長であるアンジェリカ・チャン氏のコメント「中国市場進出をねらう西洋ブランドは、中国人の文化に対する感性を考慮すべき。本社からの命令を全て(中国チームに)実行させるのではなく、中国チームからの意見や考察を聞くことで得られるものは大きいだろう」というコメントが的を射ていると思います。
中国VS西洋文化のように、予め文化の違いが「ある」と分かっている場合、それがビジネスであればなおさら、最初から「現地の声」(今回においていえば、それは中国の声)を聞いた上で制作を進めるべきでしたが、この動画を見ると、中国でビジネス展開をしているにもかかわらず、制作段階で中国人の意見を聞かない、もしくは意見を言えないような雰囲気があったことは容易に想像できます。
この動画では「ピザ」の後には「大盛りのスパゲッティ」が登場するのですが、そこではフォークにスパゲッティを巻きつけるかのように「箸にスパゲッティを巻きつけながら箸ををまるでフォークでも回すかのようにくるくると回す」シーンもあり、まさに「箸を使う文化圏の人なら絶対にやらないことのオンパレード」です。筆者にはこれは中国はもとより、お箸文化圏全体を敵に回したかのように思えました。
ところが、日本のテレビやインターネットでの意見には「中国人が騒ぎすぎ」「中国人が怒りすぎ」というようなコメントも多くあり、筆者は複雑な気持ちになりました。というのは欧州で育った筆者は(一部の)欧州人がいかに差別的かということを身を持って体験してきたからに他なりません。欧州に長く住んだ経験のある日本人や日本にルーツのある人と話をすると、現地での差別に話題がおよぶこともありますが、どうやらこの問題、「日本にいる日本人」と「欧州に住む日本人」の間に、捉え方や感じ方についてかなりのギャップがあるようなのです。
東洋人を「チン・チャン・チョン」とからかう悪質な「はやしたて」
では欧州にはアジア人へのどのような差別行為があるのかというと、昔からある代表的なものに「チン・チャン・チョンと言われてからかわれる」という問題があります。この「チン・チャン・チョン」は、西洋人から見たアジア圏の国々の言語の響きを馬鹿にした明らかな「いじめ」です。実は筆者もドイツで育った小学生時代、周りの子供に「お母さんが日本人」だということを知られた瞬間に「どうせ、家ではお母さんとチン・チャン・チョンとか変な言葉でしゃべってるんでしょ」と言われた経験があります。困ったことに、これは「子供同士」の問題だけではなく、むしろ子供は周りの大人のアジアへの蔑視を引き継ぐ形でこのようないじめをしています。実際に、大人であっても、このような「からかい」を堂々とする人がいます。道ですれ違い様にアジア人に対して、バカにした感じの口調で「チン・チャン・チョン」と言う酔っ払いにもいますし、もちろんシラフの人もいるので、気が抜けません。
さらには、日本人や中国人がドイツ語やイタリア語などの言語を習う際、アール(r)とエル(l)の発音に苦労することをバカにしながら発音を真似をする、という困った人々もいますが、驚くべきことにこのドルチェ&ガッバーナの動画でも中国人の発音をバカにしているのですから、この動画はいわば「欧州でのアジア人差別」を凝縮したものといっても過言ではないでしょう。
東洋人の目の形を揶揄する差別的な仕草
欧州で生活をしていると、アジア人を「チン・チャン・チョン」とバカにしながら、両手の指で目を横につり上げる仕草をする人を時折見かけます。これはアジア人の目の形を揶揄する仕草なのですが、いうまでもなく人種差別です。昨年、セルビアの女子バレーチームが両目を指でつり上げる仕草をし、問題になったことを覚えている方もいるのではないでしょうか。
このような一部の白人による東洋人への蔑視は許しがたいものですが、同時に驚かされるのは、ヨーロッパで現地の人に「Chinese Chinese! (中国人中国人!)チン・チャン・チョン、チン・チャン・チョン」と言いながら目を横につり上げる仕草をされても、「彼らは中国人のことを言っているのであって、日本人の自分は対象ではない」と自分に都合のよいように解釈している日本人が一部にいることです。本来は声をあげて怒るべきところを、なぜか自分の中で線引きをして「いじめっこの白人側」に立ってしまっているところにある種の歪みを感じます。
念頭に置いておきたいのは、このような悪質な「からかい」やいじめをす人というのは「アジア人全体」を低く見ているということです。「彼らは中国人は低く見ているけど、日本人のことは認めてくれている」というような都合のよい解釈はしないほうがいいですし、そもそも事実ではありません。今回問題となった「ドルチェ&ガッバーナ」に関しても、過去にステファノ・ガッバーナ氏はイタリアの全国紙コリエレ・デラ・セラで「日本人のデザイナーなんかに『ドルチェ&ガッバーナ』の服をデザインしてほしくない」と語っています。いわばアジア全体を蔑視しているといえるでしょう。
さて、欧州にいるアジア圏の人々は今まで前述の東洋人の容姿をからかうような仕草や、道端などで投げかけられる「チン・チャン・チョン」という「はやしたて」等の差別について、強い抗議はしてきませんでした。そういった背景もあってか、欧州の一部の人達にとって「アジア人」とは「からかっても、反撃してこない人達」でしたが、今回は中国人が「ドルチェ&ガッバーナ」に対して強い抗議をしたことを筆者は単純に「よくやった」と思いました。こういう時に怒ることが「やりすぎ」だとは思いませんし、今回直接騒動にかかわっていなかったとはいえ、「お箸文化圏を馬鹿にされた」としむしろ日本人も一緒になって怒るべきところだったと思います。そうしてこそ欧州社会でのアジア人の立場の向上に貢献できます。
もちろんこれには文化の違いも関係していて、日本ではどんな状況であっても決して声を荒げたり怒ったりしないことが時に美徳だと見なされますが、残念ながら欧州社会においては怒るべき時にきちんと怒らないと、相手に「これからも馬鹿にしてよい存在」と思われてしまいます。
欧州社会に東洋人への差別が一部にあることは事実ですが、その一方で近年たとえばドイツでは「白人が無意識的にする差別について」というテーマもようやくメディアで扱われるようになりました。例えばドイツのZeit誌のオンライン版では「白人であることによって、当たり前のように自分が有利なポジションにいることに気付かない人が多い。『あくまでも差別はKu-Klux-Klanのような特殊な人達がするもの。自分は関係ない』といった認識が、日常生活において、自覚のないまま白人でない人の意見を軽視したり、差別をしてしまうことにつながっている。」という社会学者Robin DiAngelo氏の見解を紹介しています。「ドルチェ&ガッバーナ」に関しても、本人達がどこまで意識しているかは分かりませんが、彼らのある種の白人至上主義やアジアに対する軽視が今回の騒動を招いたといえるでしょう。
どのようにこのような差別問題を解決できるかというのは難しい問題であり、なかなか答えが見つからないのがもどかしいですが、「中国人が白人にバカにされても他人事」のスタンスをとったり、「別にたいしたことがない」とか「そこまで怒ることではない」と問題を過小評価することが、解決にならないのはいうまでもありません。むしろ更なる差別を招く可能性があると考えたほうがよいでしょう。人の移動が多いグローバル化している今だからこそ「怒るべき時に怒る」ことも必要なのではないでしょうか。
昨年のワールドマーケティングサミットでの富士フイルムの古森会長による危機に対応するためのイノベーションの講演メモを発掘したので、こちらにも投稿しておきます。
3年前のワールドマーケティングサミットでも、日本企業がなぜイノベーションができないのかという議論で、ウォルコット氏が「何言ってるんだ日本には同じ業態のコダックが破綻した一方で、イノベーションに成功した富士フイルムのような成功事例があるじゃないか」と話題に出ていたのをよく覚えていますが。 今回はその当事者であった古森さんが生々しく裏話を語っていただき大変刺激になりました。
最近は残念な日本の大企業の不祥事が話題になることが多いですが、昭和の高度経済成長期の成功体験を背景にした大企業病と、本当の意味での日本企業の強みとか日本企業らしさというのは、ちゃんと分けて議論しないとダメだなと改めて感じさせられる逸話です。
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■Innovation Out of Crisis 富士フイルムの経営改革
富士フイルムホールディングス 代表取締役会長CEO 古森 重隆氏
■富士フイルムは、2000年当時、売上の6割、利益の7割を締めていた写真フィルムのビジネスを、4~5年であっという間に失ってしまった。
その時の経験を元に企業経営についてお話ししたい。
■企業経営とは コトラー教授がお話しされていたこととまさに同じ
・価値のある商品やサービスを社会に提供する
↓
・売上と収益を獲得
↓
・収益を未来に向けて投資することで、次の価値を創り出し、組織を存続していく
企業の存立の目的は、世の中に価値を提供するということ。 もう一つ重要なのは、企業というのは合理的、生産的な組織であるからこそ、その価値を失わないために継続することが大事。今だけ良ければ良いというのはダメ。 短期の利益だけを重視した経営ではダメで、長期を見た投資をしなければならない。
■富士フイルムHDについて
・従業員が8万人、子会社が277社
・売上高2兆3222億円
■カラーフィルムの世界総需要
・2000年に向けて成長し続けピークをうったのち、2002年から急減。10年しないうちに20分の1ぐらいになってしまった。
・フィルムの技術は180年かけて進化してきた素晴らしい技術だったが、あっという間にデジタル技術に置き換えられてしまった。
・フィルムがデジタルに置き換えられるのは、80年代の頃から予見はできていた。
・そこで危機意識を持って薬やインクジェットなど新しい事業に次々に取り組んだが、写るんですの大成功などもあり写真のフィルム事業が伸び続けていたので、全てやめてしまった歴史がある。
・その後、最初にフルデジタルのカメラを開発したのは富士フイルムだった。
・Finepix7というコンシューマー向けのデジカメを発売したのも富士フイルム。
・それにより複数のメーカーがデジタルカメラに参入し、コア事業であるフィルムが急減することが2002年頃には予見できた。
・その時に社長として考えたのが3つ
・フィルムに代わる新しい成長戦略を描けるのか
・世界中にある工場や研究所のリストラと構造改革
・富士ゼロックスとの連結経営の強化
■技術の棚卸し
・アンゾフのマトリクスで、既存の市場と新規の市場、既存の技術と新規の技術の組み合わせで各事業を検討
・重点事業分野策定の3つのポイント
・成長市場か
・技術はあるか(社員に市場への知識があるか)
・継続的に競争力を持ち続けることができるか
・これによりヘルスケアやデジタルイメージングなどを注力事業に絞り、既存事業のリストラを実施して、注力事業に多額の投資を実施した。
・リストラは、55歳の人に割り増しの退職金を出すなどの対応をし、特約店は買い上げるなどの対応をした。
・これらの努力によって、最大の危機は乗り越えることができた。 この変化ができたのは社員のお陰。
■新たな成長へ
現在は各事業を3つのフェーズに分類
・未来を創る投資
・成長を加速
・収益力の向上
■発展し続ける企業とは
・環境の変化に応じ、変化し続け、成長し続ける企業 =絶えず新しい製品や価値を生み出し続ける開発力と企業文化を持った企業
・自ら変化を作り出す企業ではないか。
・コダックは、富士フイルムと同じくフィルム事業をしていて当時売上は20倍以上だった。 その後コダックに追い着け追い越せで努力をし、1977年に高感度のカラーフィルムを作ることができ、コダックに技術で追い着き、1990年は世界各地でコダックと互角の競争をすることができた。
・その後デジタル化の変化にコダックは対応できず、破産することになった。 富士フイルムは変化に対応して生き残ることができた。
・この違いは何だったのか?
・1980年には、コダックも富士フイルムも同じようにデジタルのメーカーになろうと対応した。
・両者共に自社のカニバリが問題になり、フィルムが伸びていたこともあり、コダックはモラトリアムに陥って変化の手を休めてしまった。
その過程でも富士フイルムは、デジタルカメラへの挑戦を先頭を切って取り組んでいた。この違いは大きかった
・また、コダックは当初中国ではアナログの既存事業が延命できると判断するなど戦略が迷走した。富士フイルムはデジタルへの変化は中国も含めて不可避と判断していた。
・また当時スーパー301条など、コダックは富士フイルムとの競争に注力しすぎていた。コダックが戦うべきは富士フイルムではなくデジタルだったはず。
・またコダックは投資を小出しにしていたが、富士フイルムは思い切った投資を実施することができた。特に大きいのは、現在の株主にいい顔をするため、直近の利益を重視して投資を渋っていたように感じている。
■有事のリーダーに必要な考え方・やるべきこと
平時のリーダーに必要なことはウォッチャーであること
有事のリーダーに必要なことは
・経営者の強い意志
・スピード
・ダイナミズム
・プライオリティ
・有事のリーダーの7P
・Photo 現状を把握する
・Predict 将来を予測する
・Plan 数字をシミュレーションし、プライオリティを決める
・People 社員一人一人に明確なメッセージを発信する
・Perform 実行する
・Passion 情熱、率先垂範、断固としてやり抜く
・Philosophy リーダーとしての哲学、大局観
引用・リアクション:15件
妻・沙知代が虚血性心不全で倒れ、85歳でこの世を去ってから、早いものでもうすぐ1年になる。
だだっ広い家で独り過ごしていると、ふとした瞬間に、あの日のことを思い出す。
忘れもしない昨年の12月8日、寒い日だった。
「大変です。奥様の様子が……」
昼過ぎにリビングでテレビを見ていたら、お手伝いさんが飛んできた。慌ててダイニングに行くと、食事中の彼女が、座ったまま頭をテーブルにつけている。
「どうした?」と聞いて背中をさすってやると、一言、「大丈夫よ」と言ったきり動かない。彼女はどんなときも前向きで弱音を一切吐かない人だったけれど、まさかあれが最期の言葉になるとは思わなかった。
慌てて119番通報した。救急車が到着して、担架に乗せられたときにはもう息がなかった。
救急隊の人が言う。
「病院に搬送しても、もう手の施しようがありません」
頭ではわかっている。しかし、どうにも気がおさまらない。
「とにかく、病院に連れて行ってくれないか」
頭を下げて、無理にお願いした。
病院に向かう車中、横たわる彼女に「サッチー、サッチー」と何度も何度も声を掛けた。
だが、ついに彼女が言葉を返してくれることはなかった――。
こんな別れがあっていいのか。そう思った。あんなに強かった女が、あまりにもあっけない。人間の最期とは、かくも唐突に訪れるものなのか。
むろん、齢80を超えた夫婦の二人暮らし、ここ数年は、おのずと死を意識するようになっていた。
時折、思い出したように「俺より先に逝くなよ。俺をちゃんと送ってからにせえよ」と言う私に、彼女は決まって、こう応えた。
「そんなの、わからないわよ!」
私は8年前に、解離性大動脈瘤で生死の境をさまよっている。だから、絶対に自分のほうが先に逝くと信じて疑わなかった。沙知代が俺を看取ってくれるものだと。よく考えたら、そんな保証はどこにもないはずなのに、男とは単純なものだ。
それだけに、思わぬタイミングで妻に先立たれて心に空いた穴は、あまりに大きい。 あの日から、82歳の何もできない男の、独りの日々が始まった。
思い返せば、二人で暮らしていたときも、さほど会話が多い夫婦ではなかった。同じテレビ番組を、それぞれの部屋で見ていたくらいだ。40年以上も連れ添った夫婦の生活なんて、そんなものだと思う。
だが、独りになったいま、ひしひしと感じるのは、彼女が家にいるのと、そうでないのとでは、気持ちの張りがまったく違うということだ。
仕事が終わって家に帰ったとき、発破をかけてくれる人が誰もいない。沙知代は、私が出ているテレビ番組をつぶさに見ていた。
私はそれほど話し上手ではないから、ボロが出たときは容赦がない。「何やっているの!」と叱られ、「ダメだったか?」と返すと「ダメよ、あんなの!」とキツい言葉が返ってくる。逆に、何も言われないときは合格点。大仰にほめられることはなかった。
〈今日の仕事、沙知代はなんて言うかな〉
彼女の反応が、私の活力になっていた。
いま、家にいるときはテレビが唯一の話し相手。画面に向かってボヤくしかない。
沙知代の遺品の整理は、すべて息子夫婦に任せた。私は、モノに対しては執着も、思い入れも何もない。彼女の思い出と、位牌ひとつあればいい。
宝石やら貴金属が好きで何やらたくさん持っていたけれど、それがどうなったかも、よく知らない。派手なものが多かったが、息子の嫁さんは彼女とは正反対のおとなしく落ち着いた人なので、身につけることはないだろう。
沙知代が死んでしまってしばらくは、何もする気が起きなかった。
〈何もない人生〉
そんな言葉がふと頭をよぎる。俺の人生は、もう終わりだ。朝起きてすぐに、そんな詮無いことを考える。
それでも、テレビに雑誌と、いただいた仕事はすべてこなした。
スケジュールを管理してくれている事務所からは、「しばらく仕事をキャンセルしましょうか?」という申し出もあった。
少し悩んだ。でも、キャンセルはしなかった。
ひとつには、自分の都合で人様に迷惑をかけたくないという責任感がある。そして、取材が入れば人と話をすることができるから、妻のいない寂しさを少しでも忘れられるのではないかと思った部分もあった。
だが、何より私を突き動かしていたのは、他でもない、沙知代の言葉だった。
「男の値打ちは仕事で決まる。それがなかったら、あんたなんて終わっちゃうのよ」
沙知代は、事あるごとにそう言っていた。昭和7年生まれの、昔の人。
「亭主が手持ち無沙汰でウロウロしていたら、家の中は真っ暗になるし、そのうち病気になっちゃうじゃない。だから、私はあなたを休ませないの。これも内助の功。妻の愛よ」
こう言ってはばからなかった。
確かに、私は仕事がなければ、日がな一日家に閉じこもり、ボーッとテレビを見ているような人間だ。沙知代に尻を叩かれてなければ、とっくのとうにボケていただろう。
この年になっても、私がこうして仕事をいただけるのは、紛れもなく彼女のおかげだ。
ご存じの通り、生前の沙知代はいろいろと世間様を騒がせ、時にはご迷惑もおかけした。
私が、'77年に南海の監督をクビになったときも、2001年に阪神の監督をクビになったときも、その原因は彼女にあった。世間からは、まごうかたなき「悪妻」と思われていただろう。
だいたい、夫の俺に話していた経歴からして、みんな嘘だった。
出会った頃に、英語を流暢に話す彼女を見て、「どこで覚えたの?」と尋ねると、すました顔で「コロンビア大学」。本当は福島の農家の娘なのに、自分は社長の娘だと言い張っていた。とうとう沙知代が、私を両親に会わせることはなかった。
めったに言葉を荒らげることのない私だって、何度怒鳴りつけてやろうと思ったかわからない。
だけど、彼女と別れようと考えたことは、人生で一度たりともなかった。
「俺以外に、お前と上手くやっていける人間が、この世にいると思うか」
そういう気持ちだった。
私は生来の不安性で、ふとした瞬間に弱気の虫が顔を出す。そんなとき、平然とした顔で「なんとかなるわよ」と励ましてくれる彼女に救われた回数は、数限りない。
悪妻かどうかは、周囲ではなく、夫である私が決めること。何度聞かれても、私は断言できる。
「サッチーは、これ以上ない最良の妻であり、私にとっての最高のラッキーガールだった」と。
こうして妻を見送って時間が経つと、意識し始めるのは、やはり自分自身の死だ。私も少しずつ、人生の始末を始めている。
まず、独りで生きるにはいまの一軒家は広すぎる。老い先短く、取っておきたいような品物もない。狭いマンションに引っ越すことも考えている。
墓も買った。あとの細々した始末は、息子夫婦に任せればいいと思っている。カネのことで迷惑をかけたら悪いから、そろそろ遺言くらいは書いておこうか。
自分の死にくわえて、もうひとつ頭をよぎるようになったこと。それは、ちょうど50年前に他界したおふくろのことだ。
父は私が3歳のときに亡くなり、看護師だった母は女手一つで私を育ててくれた。
体が弱くて、大病を患いながらも、黙々と働き続けた。それでも、家計はちっとも楽にならない。本当に貧しかった。
おふくろは、苦労するためだけにこの世に生を受け、死んでいったような人だった。
時折、おふくろの葬儀の日のことを回想する。
棺の中に目をやる。やせ細った体を見たとたん、
「おふくろよ、人生、幸せだったのか」と思わず声が出て、めったに流さない涙がとめどなくあふれた。
「おふくろ、ありがとな」と、もっと言ってやればよかった。好きなものをもっと食べさせてやればよかった。もっと、もっと……。男は死ぬまで母を忘れないとどこかで読んだが、どうやらそれは本当のことらしい。
先日、雑誌の企画で、夫の三浦朱門さんに先立たれた作家の曽野綾子さんと対談した。
「ふと青い空に夫の視線を感じることや、夫の声が聞こえると思うときがあるんです」
曽野さんはそう言っていた。私も、折に触れて沙知代の顔や、言葉を思い出す。
夫婦って本当に何なのだろう。当然、二人そろって初めて夫婦なわけだが、独りになって、そんなことを考える。
沙知代が亡くなる日、昼頃に私が目を覚ますと、彼女が言った。
「左手を出して。手を握って」
今までの人生、彼女からそんなふうに言われたことは一度もなかった。私は黙って、そっと手首を握ってやった。
あのとき、沙知代は何を思っていたのか。いまとなってはもうわからない。
私たちは性格も、考え方も正反対だった。けれども、長く一緒に生きるうちに、すべてが溶け合っていた。私たちは二人で一人だった。
そんな「身体の半分」を失ってもうすぐ1年になる。私はこれから、いったい何を楽しみに生きていけばいいのか。
「これからも元気で、球界のためにボヤき続けてください」
仕事で会う人は、そんなことを言ってくれる。ありがたいことだが、私にできることは、もうやり尽くした。いつお迎えが来ても悔いはない。
いま残されている楽しみといえば、食べることぐらい。83歳、これ以上長生きするために健康に気を遣う必要なんてないだろう。好きなときに、好きなものを食べている。
先のことは考えない。仕事の予定を前日の夜に聞いたら、あとはそれを精一杯こなすだけだ。
そして夜、独りの家に帰ってきて、妻の位牌に語りかける。
「サッチー、君がいない毎日は、本当につまらないよ」
こんなボヤきを聞いて、彼女はどう応えるか。それは、なんとなくわかる気がする。
「大丈夫。なんとかなるわよ」
そうだよな、あとちょっと、生きてみようか。
「週刊現代」2018年11月10日号より
(^ω^)やる夫のチラ裏やるお(^ω^)からリブログされた引用。リアクションが1,055件
昔、自分のことを人見知りだと思ってたんです。でも、今は人見知りって気のせいじゃないかって思うんですよね。「人見知りです」と言うのって、「コミュニケーションをとる努力をしない人間なので、気を遣ってください」と言うのと一緒なんじゃないかと気づいてから恥ずかしくなって、5年くらい前から言わなくなりました。
出典: kotobanohako
引用・リアクション:3件
日本のロック熱は女子の〝好き〟エネルギーが作ってきた 映画「ボヘミアン・ラプソディ」公開を機に振り返る
映画「ボヘミアン・ラプソディ」が公開されて話題だ。イギリスのロックバンド、クイーン、そのヴォーカルのフレディ・マーキュリーに焦点を当てた伝記映画。なるほどクイーンは映画が作られるにふさわしいスーパースターだが、1973年のデビュー当時は本国では全く人気がなく、評論家たちにも大不評で「グラムロックの残りカス」とまで書かれたとか。残りカスって……どうよ? よもや半世紀後に伝記映画が作られるとは、書いた評論家も思わなんだろう。
クイーンのフィーバーは日本から世界へ
そんなクイーンを最初に注目し、人気を獲得したのは、実はここ日本。しかも音楽雑誌の女性記者の先見の明からだった。その記者とは東郷かおる子。後に、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長となるが、1973年当時はそこの1記者だった。
「ミュージック・ライフ」は1937年に歌謡曲の投稿誌として産まれ、1953年からはジャズと歌謡曲を紹介し始め、1960年代からは海外のポピュラーミュージックを紹介する音楽雑誌として一時代を築いた。
東郷かおる子は1967年に「ミュージック・ライフ」を発行する新興楽譜出版に入社する。高卒の女子。最初は経理部に配属されるも、ゴミ箱に捨てられたスターの写真が載る校正紙を拾っては抱きしめ、憧れのスターに一瞬会えただけでワンワン泣いて感激していた。その熱意で編集部へ異動。愛と情熱で働く、若き女性記者だった。
そんな東郷がクイーンを初めて誌面に登場させたのは1974年5月号。モノクロのグラビア1ページ。「イギリスの新しいアイドルはこれだ!」と銘打ち、「最も将来が期待されているのがこのクイーンである。久しぶりに登場したルックス良し、音良しの華やかな雰囲気を持った若者たちだ」と書いた。東郷はデビュー曲「炎のロックン・ロール」を聴いて気に入っていた。
「メンバーはどんな顔をしているんだろう? そのうちに、モノクロのメンバー・ショットが届いて、それを見たら、ルックスもすごくいいわけね。当時は、まだ四人とも若かった。これ、結構いけるんじゃない?と思って、とりあえずミュージック・ライフに写真を出してみようとグラビアに出したら、読者からすごい反響があったの。それで、クイーンは人気が出るな、いつか取材したいな、と思っていたわけね」 (『ミーハーは素敵な合言葉』より)
その機会は瞬く間に訪れた。同じ年の7月号に掲載する、モット・ザ・フープルというイギリスのバンドの“ブロードウェイでの初のロック・コンサート”を取材するために初めての海外、ニューヨークへ行くと、その前座がなんと!クイーンだった。当時そんなわけでクイーンは人気がなく、増してやアメリカなどではまだ無名。照明も暗い中でのわずか30分の演奏だったが、東郷は「このバンドが日本で受けないはずがない!」と確信した。それは彼女の勘というか、ミュージシャンのスター性をかぎ分ける嗅覚で、見事に的中することになるのだが、ここからがまたすごい。
ファンの目線でメンバーに直談判
コンサート後、モット・ザ・フープルのレコード会社の人たちとレストランに行くと、そこにたまたまクイーンのメンバーがやって来た。東郷はずんずんと彼らのテーブルに近寄り、「日本から来た、こういう雑誌の者です。先月号なんですけど、あなた達の写真が載ってるんです」と「ミュージック・ライフ」を差し出した。するとクイーンのメンバーたちは「僕たちの写真が載ってる!」と大喜び。何せ人気がなかったんだから……。東郷はすかさず「時間があるなら明日インタビューを取らせてもらえませんか?」と直談判した。当時ろくに英語も話せなかったという東郷、しかも初の海外取材。大した度胸だ。
これが東郷と「ミュージック・ライフ」の、クイーンとの運命としか言いようのない出会いで、そこから「ミュージック・ライフ」はクイーンに何度も取材を重ね、大々的に掲載する。英米でも彼らは少しずつ知名度が上がっていたものの、日本での人気は圧倒的なものになった。1975年4月の初来日時には羽田空港に1200人以上ものファンが集まって、クイーンのメンバーはもみくちゃになった。
その大フィーバー振りは当然ながら海外へもニュースとして伝わり、そのことがアメリカやイギリスでの宣伝活動に火を点け、もちろん実力あってこそだが、クイーンは世界的スターへと上り詰めて行く。翌1976年の「ミュージック・ライフ」4月号には「クイーン、ついにアメリカでも一流グループの仲間入り」とある。そのきっかけは、東郷の金の卵を見抜く目と耳だったわけだ。
彼女のスターを見つける嗅覚は、1978年に再び発揮される。後に世界的スターとなるチープ・トリックだ。レコード会社から持ち込まれた、前の年にデビューしたばかりの彼らのレコードを聴くと「そこそこパンクっぽくて面白い」と東郷は思った。「じゃ、確かめてみよう」とまたアメリカへ渡り、ブルー・オイスター・カルトというバンドのこれまた前座を務める30分たらずのチープ・トリックの演奏を見た。東郷はこれにたちまち撃ち抜かれた!
ちょうどクイーンの人気もひと段落。「新しいスターが欲しい!」と思っていた。「ミュージック・ライフ」は、今度はチープ・トリックを毎号大々的に掲載して、彼らは日本で爆発的人気を得る。ヴォーカルのロビン・ザンダーは王子様的アイドルとなり、他のメンバーもキャラが立っていた。武道館でコンサートを行い、そのライヴ盤が作られて発売されると、なんと全米ナンバー1に輝いた。武道館という名前も、ここで一気に世界に広まったのだ。
2015年に私が東郷にインタビューしたとき、逸材を見つけ、それを大々的に推してスターに育てていく過程をこう言っていた。
「格好いい!と自分が思えることが原動力なわけ。別にファンじゃなくても、光ってる、ビビッときた、行けるわ!と思うと、私のアドレナリンはすごいから。しかも、当たるんだよ、それが。私は最大公約数の人間なんだよね。特別な感性じゃないの。普通なの」 (「季刊レポVol.19号」より)
大衆が何を求めているかを見抜くプロデューサー眼ではなく、大衆、しかも熱狂する女性ファンの目と耳そのものを自ら持ち、逸材を見つけ、とんでもない情熱と、大胆な行動力でクイーンを、そしてチープ・トリックをスターにした東郷かおる子。こんな女性が昭和の時代に日本でロック文化を培っていたのだから驚くが、「ミュージック・ライフ」には実は、東郷が憧れた先人がいた。
日本刀携えてビートルズを訪ねる
1965年、当時既に大スターで誰も成し得なかったビートルズとの単独会見に成功した、ミュージック・ライフ編集長・星加ルミ子がその人だ。彼女については、『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』が詳しい。
星加は短大で英語を学んでいた20歳のとき、新宿のジャズ喫茶で偶然「ミュージック・ライフ」の求人広告を見つけて応募、アルバイトとして入社した。1960年のことだ。最初は読者からの投稿ハガキの整理など雑用をしていたが、3年後には彼女が実質的な編集責任者になる。
それまで日本の歌謡曲と海外のポピュラー音楽を載せるどっちつかずだった「ミュージック・ライフ」を、1963年9月号でエルヴィス・プレスリーを表紙にし、海外のポピュラー音楽専門誌に変えた。投稿欄の担当者だった彼女は、「海外の歌手を載せて」という読者の声が日に日に増えていることに気付いて大胆な路線変更をしたのだ。
それはすぐに功を奏す。1964年2月にビートルズが日本デビューすると、「ビートルズかわいい」という声が続々寄せられた。星加はこれだ!とピンときて、同年4月号でビートルズを表紙にする。宣伝用のモノクロ写真を色づけし、それぞれの顔を切り抜いて配した。この表紙は大好評で、一か月後の返本の際には表紙だけが切り取られたものが幾つも送り返されてきたそうだ。
そこから日本でもビートルズ人気が爆発。それに伴って海外のポピュラー音楽を紹介する「ミュージック・ライフ」の売り上げもどんどん伸びていく。星加は20代前半でやり手の編集長だった。
そんな星加をロンドンに飛ばし、ビートルズに取材させたい、という思惑が周囲から沸き起こるには時間がかからなかった。とはいえ、そう簡単に事は運ばない。ロンドンのオフィスに問い合わせれば、素っ気なく断られる。それでも星加はロンドンに行くことになった。とにかく行ってみなよ、というムチャ振りだ。世界一周、一か月にわたる取材旅行の日程を組んで1965年6月、星加は日本を発った。海外渡航が自由化された1年後のことだ。
しかし、ビートルズに会えるという確証はない。というか、全く希望はなかった。そこで彼女はまずマネージャーに気に入ってもらおうと、お土産に本物の刀をロンドンへ持って行った。今ほど法律も空港も厳しくなかったとはいえ、なんということをするんだろう。星加はビートルズの4人にあげるお土産用のおもちゃの刀に本物の刀を紛れ込ませて持ち込み、ロンドンでマネージャーにプレゼントした。
それが功を奏した……というよりは、日本の音楽雑誌の編集長がまだ20代前半でビートルズと同年代、小柄でおかっぱ頭のニコニコした女の子(イギリス人から見たら子どもに見えただろう)だったことにマネージャーは心を動かされたのだろうと、後に星加自身が言っている。日本公演を行った際には若者たちに見て欲しいと、チケットの値段を低く設定してもいたビートルズだ。当時、彼らは若者の代表であり、仲間だった。星加は仲間として、ビートルズに迎え入れられたのだ。
星加はビートルズに会うことができた。30分の予定が3時間にも及んだという。ビートルズと星加が並んだ写真は「ミュージック・ライフ」の表紙のみならず、世界中の音楽雑誌、そして日本のスポーツ紙や週刊誌をも飾り、日本の若い女性がビートルズに会ってきた!とTVやラジオでも大きな騒ぎとなった。
もちろん、それまでもビートルズは日本でも人気だったが、星加が会ったことで日本におけるビートルズは俄然リアルな実像となって、当時は本当に存在していた「お茶の間」レベルのスターになった。その後の来日公演では教育界や文化人、放送人、政治家、警察まで日本中を巻き込んだ大騒動になっていく。
星加がロンドンでビートルズに会ってなかったら、果たしてここまでビートルズは日本で市民権を獲得しただろうか? 星加が日本にビートルズというスターを連れてきた、といって過言ではないと思う。そしてそれは、日本にロックという音楽文化を根付かせる、大切な大切な一歩だった。
さて、その星加が10代から憧れていたスターはエルヴィス・プレスリーだった。星加はビートルズに会った旅で、実はアメリカに渡ってエルヴィスに会うための画策を図ったが失敗していた。もしビートルズ同様にエルヴィスとも一緒に並んで写真を撮り、「ミュージック・ライフ」の表紙を飾っていたら、どうなっていただろう?
同じことを「ミュージック・ライフ」で当時、「スターの花かご」という人気コラムを書いていた湯川れい子も考えていた。82歳の今も音楽評論家として現役の彼女は1965年10月に渡米し、日本でも大人気だったアメリカのシンガー、パット・ブーンの自宅を訪問する。彼女はパットの来日公演の司会を務めたりで(注:当時はコンサートに司会がついた)、彼とは懇意だった。そしてパットはエルヴィスの友人でもあり、湯川はパットにあるお願いをしていた。
「アメリカに行けるようになったらあなたに会いたい。そしてエルヴィスに会わせてほしいの」 (『女ですもの泣きはしない』より)
スター相手に言うね!と思うが、彼女は物おじせずに綱引きをぐいぐい手繰り寄せるように、欲しいものを自分の力で引き寄せる人だ。多少強引でも、笑顔と丁寧な物腰で相手を納得させてしまう。パットはそれで「ロスに来たら感謝祭に自宅に招待するよ」と言ってくれた。湯川が本当に訪問すると、パット自らエルヴィスのオフィスに電話をして取材の交渉までしてくれた。「彼はハリウッドで映画の撮影中。時間が空けば会えるそうです」
楽屋を訪ね、プレスリーとキス
ワクワクして待ったが、結局このとき湯川はエルヴィスに会えなかった。エルヴィスは日本を熱狂させるせっかくの機会を失ってしまったのだ。当時彼は30歳。デビューした1956年は21歳だった。エルヴィスがデビューした頃、湯川はまだ音楽評論家ではなかったし、「ミュージック・ライフ」に星加も東郷も当然ながらまだいない。誌面では男性評論家たちが「エルヴィスは男ストリッパーか?」とか、「ハクいスケにもてようと期待するならばエルヴィスの秘密を取得吟味して新しい戦術を作り出せ」といった、過去の価値観を覆す新しいタイプのロックスターを理解できず、彼をこき下ろす記事ばかりが目立った。エルヴィスと日本はタイミングがことごとくズレていた。
それでも湯川自身は全くあきらめていなかった。1971年8月、ラスヴェガスでエルヴィス・プレスリーに初めて対面する。コンサートの楽屋でのことだ。時間は少ししかなかった。
「長居はできない。私は進み出て言った。『キスしてください』エルヴィスの顔が近づき、やわらかい唇が私の唇に触れた」(同)
エルヴィスはコンサートで、ファンの女性にキスするのが習わしだったとか。だからキスしてもらいたかったという。湯川はエルヴィスの前でファンであろうとしたのだ。そして、その一部始終をありのまま、エルヴィスがどんなにステキだったかを新聞に書いた。するとそれが「評論家の風上にも置けない」という大バッシングを巻き起こし、湯川は逆に腹をくくった。
「私は評論家などと呼ばれなくたっていいのだ。一生、ミーハーのままでいてやろうじゃないか、という気持ちがさらに強くなった」(同)
湯川にとって「ファンである」ことは、音楽の仕事をする上で最も大切なことだった。1966年のビートルズの日本公演で、武道館に響き渡る少女たちの無垢な嬌声に心底胸打たれ、同時にその少女たちを力任せに抑え込む権力に激しい憤りを感じていた。
「力を誇示する男たちは自分には理解できない、自分の支配力が及ばないエネルギーが怖いのだろう。それなら私は一生、この『キャアア』という叫びの側にいよう」 (『音楽に恋をして~評伝湯川れい子』より)
拙著の引用だが、湯川れい子は敢えてファンの側に立ってロックを伝えてきた。それはエルヴィスに会った翌年の1972年から24年続いた、湯川がDJを務めたラジオ番組「全米トップ40」でいかんなく発揮され、ロック文化を楽しむことを日本の若者たちに広く伝えた。
ちなみに湯川のキス事件騒動こそ、日本では既に忘れられた存在だったエルヴィス・プレスリーが、お茶の間でも知られるスターになるきっかけだった。ジャンプスーツで太ったロックスター、エルヴィスという少々ねじまがったイメージではあったものの、エルヴィスの名前と姿は日本で広く認知されるようになった。
東郷かおる子、星加ルミ子、湯川れい子。彼女たちはひたすらロックを愛し、大胆な行動を起こし、時には暴走もし、それが日本にロックという音楽と文化を根付かせ育て、遠く世界にまで波及させもした。好きこそものの上手なれ。“好き”のエネルギーはどんなハードルをも乗り越ていくのだ。
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